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「コレン=富野説」(漫画評:∀ガンダム)
∀ガンダム」全5巻 講談社マガジンZコミック
曽我篤士著(原案 富野由悠季 矢立肇)
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 ∀ガンダムについては、ノベライズとして福井晴敏氏(『ローレライ』や、『亡国のイージス』の原作者として有名)の筆によるモノや、佐藤茂氏の執筆によるモノがある(こちらは未読)が、ここで紹介するのはコミック版。多分、一番マイナーなカテゴリーだと思う。

 さて、ガンダムシリーズをここで紹介するのは、少々このページの趣旨とは異なるように思うのだが、個人的にはVガンダムと並んで、大好きなガンダムなので、何らかの形で思ったことを残しておきたいと思ったのと、今日、漫画喫茶で表題の書籍を一気読みしたことが、ここにいま書く理由。

 まずは、元々の原作(?)である、アニメ版のことを語らねばならないだろうから、そこから。
 ∀は、『ガンダム』という名のテレビシリーズとしては、富野御大が最後に関わった作品だということは、まあ、こんなページを見ている方なら常識の部類だと思う。ただ、作品としては富野御大自分が心ならずも生み出してしまった鬼子『Vガンダム』に影響を受け、世に生み出され、しかも、大絶賛のもと社会現象にまでなった『新世紀エヴァンゲリオン』に、対するアンチテーゼとしての作品でもあるらしい。
 らしいと書いたのは、御大自身の著書『∀の癒し
icon』に、そのものズバリではないが、それらしき記述があるからとだけ(記憶あいまいだが…)言っておこう。
 よく、エヴァは、庵野秀明氏が「デビルマン」に影響を受けて生み出された作品だと言われるが、よく見てみると、表現技法や、作品全体に流れる人間関係など、実はVガンダムにインスピレーションを受けているとおぼしき表現が多々ある。これも、あいまいな記憶だが、Vガンダムには、GAINAXが、一部制作に加わっていたはず。
 まあ、その辺の考証は、もっと詳しいページがあると思うので、そちらを参照すればよろし。

 ∀のあらすじに関しては、ここでは省く。一言で言えば、「竹取物語のその後」である。
 まず、この作品は、それまでの富野ガンダムと同じく、宇宙(そら)に上がってしまった人と、上がらなかった人の反目と葛藤をバックボーンにしている。が、異なるのは、それまでのガンダムが、「人は分かり合えるのか?」というテーマを、ニュータイプという道具をつかって、戦いの果てに、パンドラの箱に残ったたった一つの「希望」を見せて終えるのと異なり、この作品が、結局、分かり合えないからこそ人であり、分かり合える者に分かってもらえれば、人はそれが一番幸せになれる道なのだと、ある意味突き放している点が異なると思える。
 まあ、かなり抽象的な言い回しだが、アニメ版のエンディングを見れば、それまでのガンダムが「みんなのもと」に集い終えているのに比べて、∀が一人一人の、幸せ、悲しみ、癒しを描いて、フェードアウトしている点を挙げれば分かってもらえるかもしれない。

 ただ、だから、この作品は「優しさ」がないとは、思わないでほしい。むしろ、きっぱりと、「分かり合えない」からこそ、人が人に優しくできることを示唆しているだけ、この作品の本質に「優しさ」があると言える。
 そう、下手に、分かり合えるという幻想をがあるから、「なぜ分かってくれない!」という、恨みが生まれる。下手にニュータイプなどという人の革新の本質を「理解」に求める道具として使ったために、これはもう、亡霊のようにガンダム世界につきまってしまい、遂げられない想いとして、それ自体が戦争の引き金となってしまう結果となっている。
 パンドラの箱に残った「希望」は、たった一つの人間への祝福ではなく、「希望」などというモノがあるため、人は欲望をもとめ人を押しのけ、人に先んじようとし、人を害する。だから「希望」こそが、まさに、パンドラの箱にあった最悪の災厄であるという逸話を思い出す。
 これを、富野御大は一旦、Vガンダムで断ち切ろうとするが、その代わりに「エンゼルヘイロー」という、「理解」を強いる道具まで持ち出す矛盾をかかえる羽目になり、結果として物語世界その物の破壊を来すことになる。

 ∀は、Vガンダムで破壊してしまったガンダムという世界を、もう一度、富野御大自身が再構築した世界である。

 さて、ご託はこの辺まで。漫画の書評に移ろう。

 作品のキャラクター描写は、アニメの雰囲気をうまく再現している。特に、ロランは、アニメ以上にロランというキャラクターを明確にしているように思われる。例えば、ロランがムーンレイスであることを告白する理由が、義憤からだけではなく、親友を助けるためと、より人間くさいエピソードになっていて、感情移入としては、こちらの方がしやすいと思える。
 また、アニメでは52話であるモノを5巻にまとめているため、中米編や、ヴィルゲイムの逸話、核発掘のエピソード等をはしょっているが、その分、ストーリー展開に勢いがある。そのはしょった部分については、グェンをウィルの子孫とすること等で、整合性を持たせているし、後に核を宇宙に持っていく話も、グェンの策略とすることで、後のグェンの行動をより理解しやすいモノとしている。

 もちろん、この物語のもう一つのコアである、キエルとディアナの成長も実にうまくポイントを抑えて描写している。「建国のダストブロー」にあたるエピソードが無く、その代わりにアグリッパ一派に利用されることに必死にあらがうが、どうにもならないキエルの葛藤が描かれており、キエルがより人間らしく描かれている。また、アニメとストーリー展開を変えているが、漫画の方がキエルがハリーに、ディアナがロランに想いを寄せる感情の動きの描写がうまい。

 残念な点も、もちろんある。コレンが、早々に舞台から撤収することがその一つ。黒歴史の生き証人として、白い悪魔の幻影に対して、これを何とか粉砕しようと、徒手空拳をふるい、そして、最後の最後に、∀とターンエックスを向こうに立ち回りを演じる彼こそが、富野御大そのものだというのが、僕の印象なのだが、彼がいなくなったため、ガンダムの亡霊を断ち切るという、富野御大自身の思いは、マンガには表現されていない。まあ、この媒体自体には、直接富野御大が関わっていないから、それはそれでいいのかもしれない。
 また、福井∀が『復活の日』(小松左京原作)のようなエンディングで、ある種一番のリアリティーを、アニメ版エンディングが、先に述べたような終わり方で、ある種の癒しを与えているのに比べて、マンガのエンディング自体は、「待つソシエと、ロランが生きている暗示」で、それまで描いてきた「キエルとディアナ」がある意味ほっぽり出されている点、最後だけはずしたかな? という感がある。
 確かに、ソシエはアニメ以上にかなりクローズアップされて描かれていたが、しかし、たとえロランが生きていたとしても、戻る場所はソシエでは無かろうと、そう思えてしまうから、このすれ違い感が、どうもうまく咀嚼できない。

 さて、マンガ版の感想はこんな感じ。

 ∀に関してはもっと語れる(Vガンダムも^^;)のだが、今回は、できるだけ「抽象化」できる部分だけ、書くことにした。もし、まだ未見の人がいれば、是非見てもらいたいと言うことと、マンガの書評なのに、これ以上語ると、「牛が」とか、「洗濯物が」とか、語り出しそうで、ちょっと、それは…と、思うのが理由。

 とはいえ、アニメ未見の人も、アニメを見た人も、是非一読をお薦めするマンガであることだけは、最後にはっきり書いておこうと思う。
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