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駄目オタ徒然草
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「駄目青春の日々」(漫画評:麦ちゃんのヰタ・セクスアリス)
「麦ちゃんのヰタ・セクスアリス」立原あゆみ(第1部8巻、第2部3巻)
集英社マンガ文庫
baku

現在この装丁のものは絶版となっています


 かつて…、といっても、ほんの20年ほど前までは、未だ恋愛の神聖性は完全には崩壊していなかった。
 …などというと、おまえが年をとったからだろうといわれそうだが、この物語では実際に、まだ高校生、そして大学生たちの恋愛が「詩編のような哲学性を持った物語」として描かれている。
 それは、70年代という時代が持ち得た「空気」が生み出したものであり、おそらく21世紀のこの日本では生まれ得ない純愛の物語である。

 さて、本編の感想に入る前に、周辺のはなしをいくつか。

 まず、作者の立原あゆみについては、マンガ好きならばおそらく、あの大長編やくざマンガ「本気!」を描いたバリバリの男性であることはご存じかと思う。
 が、本作が執筆された当時、彼はもっぱら少女マンガ作家であり、その性別も一般的には「女性」であると思われていた。なぜ、彼が少女マンガを描くことをやめ、少年マンガ、しかもやくざマンガを描くに至ったかは、僕は知らない。ただ、彼が少女マンガを描いていた時代というのは、少女マンガがもっとも文学性を持っていた時代であったことは確かである。萩尾望都の「ポーの一族」、山岸涼子の「日出処国の天子」、竹宮恵子の「地球へ」etc.…と、今読んでも読み応えのある作品が、少女マンガで数多く排出されたのがこの時代である。
 一方で、少年マンガでは、いわゆるスポコンマンガが我が世の春を謳歌し、バトルマンガが一世を風靡し始めた頃であり、文学性のある作品は、雑誌のツマの地位に押しやられていた。この風潮が下火になるまで、すなわち青年誌が台頭しマンガの主流になるまで、漫画家が文学性ある作品を描くためには少女マンガでなければならなかったといっても過言ではない(たぶん過言w)。
 そういった時代状況で、文学性を前面に押し出したこの作品が、少女マンガというフィールドで発表されたのは致し方なかったかと思うし、その後、青年誌の影響で、少年漫画誌が文学性を取り戻した過程で、彼が発表の場をそちらに移していったではないかというのが、僕の邪推。まあ、それが何でやくざ漫画かはよくわからないが…。

 つぎに、この作品は第2部の中途半端なエピソードで、突然終了している。この理由も実は、よく知らない。主人公「麦(ばく)」とヒロイン「やよい」の再会の物語が続くのかと思って、もうすでに20年以上待っているのだが…。
 もっとも、むしろ、そのことがこの作品に不思議な余韻を与えている。最も大切なものを奪われた麦の再生の物語が、それこそ日常という時間を重ねるしかないのだという、当たり前の事実である。

 さらに、実は、僕は、この作品の主人公のいた場所をたどっている。現在この主人公が生まれた場所にほど近い場所に(といっても電車で小一時間かかるが…)住んでいるし、大学時代は、彼と一緒の大学に進んだ(学部は違うが)。
 いや、正確に言うと、この作品を読んで進む大学を決めたと言っていい。我ながら、なんと浅薄なとも思うが、一番多感である時期にこの作品に接したのだから、まあ、仕方ないだろう^^;


 さて、いよいよ本編の感想である。居住まいを正しながら…。

 上で、僕はこの作品を「純愛」の物語と描いたが、それは正確に言えば「命」の消滅と再生、承継に対する深い愛の物語でもある。主人公、秋田麦が、そもそも「命」に対する深い愛情を背負って生まれてきたという背景を持っている。主人公の父、秋田記(しるす)は、北海道の田舎から主人公の母、つまりその妻を奪うように連れ出し、しかし、麦の母は麦を産んでやがて命を落とす。記は、麦に妻に対して与えうる愛情のすべての注ぎ込む。有り体に言えば、死んだ人の分まで大切にするということなのだが、麦の「命」に対し敏感すぎるほどのパーソナリティーは、ここから生まれる。
 第一部の最初の方では、高校生らしい恋愛もする。ふつうに少しかわいい子に、「こんなものかな?」などとちょっと妥協した交際をする(実は、後々の麦の人生に多大な影響を与えるヒロインなのだが)。
 …が、次に出会う「星子」が、麦の人生の価値観を180度ひっくり返してしまう。彼の命に対する鋭敏さを揺すぶり起こすのが、この星子とのエピソードだ。このエピソードはその後の麦の物語の根幹に常に流れ続ける。

 さて、この作品の根底に流れるものは何か? 一つは、死という概念の再構成だと思っている。(ネタバレ→)麦の惚れた星子は、麦の入り込めなかった彼女の心の奥の「悲しみ」で自らを死へと誘わせる。麦はその死に飲み込まれようとするが、記の愛情で命を長らえる。
 ここで、麦は、途絶えてしまったものの命の継続に気づく。記が麦に注いだ愛情は、麦へのそれと同時に、死んでしまった麦の母、記の妻への愛情である。人の命の断絶は、しかし、その「人」としての断絶ではない。あるものは「血」として、あるものは「記憶」として、あるものは、それに注がれた「愛情」として、命の断絶のあとも残るのである。
 星の悲しみによって、北へ向かった麦は、バクスターという競走馬との出会い、別れ、そのことによって「命」を継ぐことを自らの未来を重ね合わせることになる。

 麦が自問するのは、常にぎりぎりのところで「命」を継げる方法の模索であったと思う。

 もうひとつ。この作品の主人公麦は、そりゃもう、もてる^^; もてて、もてて仕方がない。でも、星子の一件以来、彼のスイッチはどこかでoffになる。踏み込むことと、立ち止まることの躊躇をくりかえす。もちろん、この時代、これは、麦が特別というわけでもなかったのだと思う。たぶん、今の空気とは違うのではないか?
 そこに、70年代がある。ちょうどマンガ「東京80's」(あれも好きな作品だった)と、この時代の間に大きな断絶があったのだろうかと思う。


 まあね、実際、今読み返してみたら、結構「イタイ」麦の「ポエム」とかあって、赤面しちゃいそうなんだけど、それでも、ちゃんと居住まいを正して、真正面からこの作品を読めば、70年代の空気というか、そこに息づいていた人たちの「恋愛」に対する真摯さが伝わってくるのではないだろうかと思う。

 Amazonとかで探しても、今この作品を手に入れるのは、結構骨だけれども、もし、気になるようならマンガ喫茶なんかで探してみてほしい。
 あなたがバブル以降の青春を送った人であれば、そして、そこに何か空虚なものを感じたのならば、その空虚さを埋め合わせる何かを見つけられるかもしれない。

 今回は、あえて冒頭のあらすじは書かない。ひどく抽象的な感想しか書いていないけれども、たぶん、ボクの中ではもうすでにそれくらい消化されている作品だから、これでいいと思っている。

ps.
 実は、この感想は結局、本作品を段ボール箱から出すことを断念して、記憶に頼って書いているが、それでもかなり鮮明に情景を思い出す。それだけ、影響を受けているのだなと思う。たぶん、それもこの作品の「命」を継ぐ作業なんだろうなぁと、そんな風に思う。
 50本目の感想を、これにして、でも、書きたいことがなかなか書けなくて、結構産みの苦しみを味わいました^^; でも満足していないw また読み返す機会があれば、感想第2部でも書こうと思ってるw いや、このブログって、僕の覚え書きだから^^;

 つうことで、とりあえず50本目の呪縛から解放されました!
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