![]() | とある飛空士への追憶 (ガガガ文庫 い) (ガガガ文庫) (2008/02/20) 犬村 小六 商品詳細を見る |
物語には、奇跡を起こすべき場所と、そうでない場所がある。前者に奇跡を欠けば、語られるべきものは平板になり、読み手にカタルシスを与えない。一方、後者に奇跡を起こせば、とたんにご都合主義に陥り、読者を落胆させる。
ただ、この二つの場所に定式はない。その二つの場所をどう紡ぎ出すかも、作家の技量の一つだろうと思う。
「とある飛空士の追憶」犬村小六著(ガガガ文庫)を、一気読みした。
だいたい、帯やポップに「絶賛の声」とか書かれている作品に当たりはほとんどない。これは僕の嗜好かも知れないが、致し方ない。ヒットは生まれるものではなく、恣意的に生み出されるものがほとんどだからだ。それでもついつい買ってしまって、がっかりすることが多い中、これは久しぶりに見つけた金鉱脈だった。
苦笑せざるを得ない地勢上の設定や、あまりにもストレートでかげりのない登場人物らの感情描写など、突っ込むべきところは数多あるのだが、物語の抑揚の付け方が非常にうまい作家で、そんな短所を補ってあまりある筆力を持っていると思った。
また、最初に書いたように、奇跡を起こすべき場所とそうでない場所の線引きをきちっとわきまえた物語は、読後感が非常に濃厚だが、この作品も、そういったたぐいの後味の良さを残して読み終えることができた。
物語の図式は、非常に簡単。賤民上がりの傭兵パイロットが、お姫様を敵中から救出する物語だ。二人の過去、そして、5日間の逃避行で繰り広げられる物語は、これでもかというくらい、もどかしくも切ない。
一方で、空戦の描写は必要かつ十分で、ほとんどが飛行機を操縦したことがないであろう読者に、臨場感と、簡明さを持って描き出される。この辺の描写は、この作品の特筆すべきところかも知れない。先頃読んだ「スカイクロラ」シリーズの、あまりにも緻密で、専門的な描写が、それを理解しつつ読もうとしたために、臨場感を欠く結果になったのと対照的だ(この辺は読み手の技量の問題かも知れないが)。
また、この作品の文章全体にいえることだが、修飾の仕方や、情景描写が平易な言葉で書かれているにもかかわらず、けっして淡泊でないところがよい。登場人物の外見の描写に関しては、いかにもラノベだが、漫画的に言えば真っ白な背景に登場人物だけ浮き上がるような描き方はけっしてせず、背景を描き固めた上で、人物を描き、さらに内面へ筆を進めるという小説技法の基本を踏襲している当たりは、きっと、今後伸びる素質を持っている作家だと思う。
さて、とはいえ、やはりラノベである。大人の読み物としてどうかと言えば、どうかなぁ? ただ、童心に返って、素直な気持ちで読めば、たぶん、すばらしいジュウブナイルだと思う。
まあ、最近、軽いものしか読んでないですけどねwww
「NHKにようこそ
滝本竜彦 著

NHKは、悪の秘密結社だそうだ。もちろん、これは、この作品の作中に出てくる主人公の妄想。いや、妄想というには、主人公がこれを信じていないので、「言い訳」といった方が正しいのかもしれない。
さて、この作品、ジャンル分けを頭の中でしていくうちに、ふっと「これって、日本の伝統芸能じゃん」という思いにぶち当たった。
いわゆる純文学の一ジャンルである「私小説」である。もちろん、「自伝的作品」というのは、いくらでもあるが、これとは異なる。すなわち「私小説」と呼ばれる作品に共通する要素として、もう、この作品出版しちゃったら、はずかしくってオモテを歩けないだろっていう、作者の恥ずかしいプライベートの暴露があること。例えば、誰でもわかるところで言えば、森鴎外の「舞姫」とか、太宰治の「人間失格」とかね。この辺は、このページがリンクさせてもらってるBeltochicaを是非見てください。いや、かつての純文学作家って、凄いねぇと、ひたすら感心してしまうよ。
と、うんちくは良いのだが、この作品も、作品中に語られる事実が、実に「いきててごめんなさい」的プライベートによって飾られている。
いわゆる「ひきこもり」の、全く惨めな精神の紆余曲折を、もうやめてくれといわんばかりの痛々しさでつづられているのだ。そして、その引きこもりの自己正当化のために、冒頭に描かれるのが「NHK=悪の秘密結社」説である。「日本引きこもり協会」だそうだ。
ウン、確かに、教育テレビを見ていたら、部屋を出たくなくなるよな(苦笑)。いや、それでも外へ出るのが常識人なのだが(オタ含む)、こういう誘惑が痛いほどわかるから、説得力もヘッタクレもないのに、「NHK=悪の秘密結社」説を、まるで当たり前の事実のように、話を読み進めてしまう。ボクって、引きこもりの予備軍?
まあ、あくまで「言い訳」としての説得力なので、とにかく、読者はおろか、主人公でさえ、これを信じるわけではない。が、実に要領よくこの陰謀が「言い訳」に使われるため、けっこう、この「NHK=悪の秘密結社」説が小気味よい。
さて、話の筋はというと、う~ん、もう、この作品については、筋を隠しても最初の40ページくらい読めば、誰でも結末は見えてしまうので、あえて隠さないけど、要は、あり得ないような素敵な少女との不思議な出会いと、カプ~ル成立へ向けた「予定調和」へ、説得力がやや薄いラブストーリーである。
もちろん、主人公佐藤君には、佐藤君なりの葛藤があり、ヒロイン岬ちゃんには、実はそれなりとはいえないようなヘビーな背景があるのだが、それも、なんだか「かる~く」話が進められるのが、現代版「私小説」の感覚なのだろうか?
で、その辺のストーリーは、もう良いとして(^^;、この小説の白眉は、引きこもりのディテールにある。とにかく、作者が真正の引きこもりであるそうで、その描写、例えば宗教の訪問勧誘に対して、「結構です」の一言がいえなくて、もう、あり得ないくらいしどろもどろしてしまう姿とか、それはもう、如何に脆弱さをとぎすまさなければ、引きこもりという偉業は達成できないかが、これでもかと言うほどに描かれている。
ただし、それでも、これはちょっとと思うところもある。あくまでボクの感想なので、気を悪くした人がいたらごめんなさいなのだけど、引きこもりって、引きこもりに嫌悪感を抱くものなのか? 確かに「脱出しなければならない状況」であることは確かなのだが、状況分析や経緯をはしょって、ただ「引きこもっている=罪悪」と定型通りの構図しか見えてこない。特に隣の山崎君に対する近親憎悪に関しては、ちょっと痛々しい。なんか、大学のマン研やアニ研が自虐オタクネタで作品を作っているような、そういう不快さしか受けなかったのは、ちょっと、ボク的にはマイナス。
それから、ストーリーの時系列描写が不親切。とにかく、引きこもりだけに、情景描写がほとんど変わらないのだから、時系列をはっきりさせてくれないと、「あれ?」と思うところが数カ所。慎重に読めば、引っかかることもないのだが、そういう読み方する小説でもないので…。
さて、で、冒頭のあらすじなのだが、もう、ホントに数行でw 引きこもりの佐藤君が、宗教勧誘のおつきあいで、彼のうちにおばさんと来た岬ちゃんと出会いました。岬ちゃんとは、それから数度偶然出会い、とうとう逃げられなくなってしまいました。あとは故郷の後輩で隣人の山崎君、故郷の高校であこがれていたのに、落ちてしまった偶像の先輩を巻き込んで、もう、痛々しいほどのどたばたが展開されます。
あとは、じっくり読んでも2時間ほどで読めるので、読んでください^^;
ps.昨日、なんか書店でちらっと見たんだけど、これって、コミック化されてる? そっちで読んだ方が面白いかも?
ppss.今リンクの作業で、ネットを検索したら、アニメにも成るの? どうやって?????? 興味は尽きません^^
「マルドゥック・スクランブル
冲方 丁 著

近未来SFアクション サイバーパンク小説。まあ、分類することに、それほどの意味はないと思われるので、この作品がどの位置にあるかというのは、これ以上突っ込むことはしない。
とは言っても、作者が「カオスレギオン」などの、いわゆるライトノベルの著者として有名であることから、その角度から読み始めると、結構しんどいかもしれないので、要注意であることだけは、付記しておく。
さて、全体的なテイストは、ハリウッドSFを彷彿させる、退廃した社会と、進みすぎた科学を背景にした、近未来都市の裏側での「正義」の一派と、「悪」の一派の抗争である。
というと、いかにもチープな作りを想像するが、筋立て、あるいは、プロット自体はチープではあると思う。
もちろん、この辺は、劇的なドラマを仕上げるための必須のバックボーンであるから、そうであるからといって「悪い」評価をつけるほど、ボクは素直な読者ではない。
問題は、このチープなプロットを、如何にドラマティックに仕上げるかという点において、細部を精緻に組み上げ、ディテールを形成する作家の力量にある。
特にこの作品の終盤一歩手前では、作者があとがきで述べているように、「カジノでの場面」が鬼気迫るリアリティーをもって、描写されている。ブラックジャックというゲームを通じ、緻密な計算に裏打ちされた、そのゲーム描写にだけとどまらない、まさに人の心理のひだを分け入るように入り込む、瞬間の切り取りは、映像を超えた鮮明さをもって、読者に迫ってくる。
あるいは、この部分を読むだけでも、この作品を読む価値はあると思う。
また、この作品の道具立てである、「超科学」の描写もすばらしい。鮫が空を飛び、腕を切り落とされても、頬を涙が伝うだけで、ただその場で天を見上げながら思索をめぐらす人、多次元に展開した身体を持つ、考えるネズミ(実は、メインキャラクターの一人)が、メタモルフォーゼによって、あらゆる物質に変換されていく姿。物語クライマックスのアクションシーンでの、重力制御装置を駆使した肉弾戦(!)の迫力。
これらは、現在のテックレベルではあり得ないにもかかわらず、作者は、なんの疑念も読者に抱かせず、淡々と筆を進める。その筆力は、賞賛されるべきであろう。
さらには、キャラクターや道具にダブルミーニングを施した名前を付け、その名前の持ち主達の将来を暗示させながら、これにあらがうキャラクターの心理描写を、名前をとっかかりに展開する手も、うまい。加えて、事象にその意味を付加すること、すなわち象徴的表現の駆使も優れている。例えば、もっとも分かりやすいものでいえば、物語の最後のアクションシーンで、バロットが卵状になった体衝撃システムが割れて、まるで雛が生まれ出てくるかの如く、出現するところなどがそれである。
また、言葉といえば、主人公バロットが、繰り返し口ずさむ歌に宿る意味、その韻を踏む軽快さと、語られる意味の重さが、物語の展開に従い、次々と変化していく様が、演出の妙として、小気味よい。
あるいは、これらの描写の妙は、作者の「小説」という「思想」に対する回答なのかもしれない。すなわち、メインの筋立ての模倣や類似を避けられないのならば、その作者の個性は、まさにディテールづくりにあり、そこにこそ、オリジナリティーがあるというものである(この辺は、作者のHPで語られる、小説を書く方法指南にも、うかがわれる)。
そうだとすると、最初にあげた筋立てや、プロットのイージーさは、作品の評価に、なんの影響もないことになる。
しかし、この作品を読んで、とても面白かったが、はてしかし…と、思ったボクの感想の引っかかりは、まさにここにあるような気がする。
最初に述べたように、この作品のプロット自体はチープであるが、それ故に作品として評価を低くすることはない。問題は、果たしてメインの筋立てに、ディテールが、美しく肉付けされているかである。
この作品の、メインスフレームとして、主人公バロットが「殻」を、突き破るまでの、心の「焦げ付き」をいかに、克服していくかという流れがある。彼女の生い立ち、そして、物語冒頭での悲劇、さらには、万能の相棒ウフコックを得たあとでの、心の変化がそれ。しかし、如何に劇的な環境の変化があったとはいえ、あまりにもその変化は記号的ではなかろうか? 諦観→絶望→深層心理の自覚→猜疑→希望→傲慢→自己嫌悪→信頼の回復→克己→昇華と、流れる彼女の心理に、実は外部からの影響はない。全て自己のやったことについての主観的評価からしか、彼女の心理は変わらない。いや、そういいきってしまうのは、いささか乱暴であるが、ウフコックやドクターは、彼女の心理の変化の触媒でしかない。もちろん、人間の心理などそんなものであるから、それはそれで仕方ないのだが、ボクが他の多くの小説を読むときに感じている、二人称的な主観(本来はあり得ない、複数の個人の2重の主観を体験することによる、人の心理の相互影響による成長の揺らぎを読み込むことなど)が、この小説にあまり表現されていないことが、メインフレームと、肉付けの関連性を、疎に感じる要因ではないだろうかと思う。
だから、あまりにも濃密なディテールの中、読み終わったあとに残ったのは、非常に素直な少女の成長譚でしかなかった。
まあ、エンターテインメントとしては、それが正しいのかもしれないが…。
さて、そうは言っても、面白いという、その点に関してだけは、曇りなく、ボクはこの作品を薦める。
もちろん、「そんなオーバーテクノロジーがあったら、世界征服してから、世直しした方が、ええんとちがいます?」という、ツッコミはしてはならないのが、お約束である(^^;
あっ…、ここまで書いて気がついたのだが、今回は冒頭のあらすじをやっていない^^;
ということで、かいつまんで…。
かなり遠い未来。マルドゥックシティーにを裏側の経済から牛耳る、オクトーバー社のカジノ部門の責任者シェル。この男に囲われた少女売春婦バロットが、シェルに「消される」ところから、物語が始まる。なぜシェルはバロットを選んだのか、なぜ消したのか? 何もわからないまま灰に、そしてダイヤモンドになろうとした彼女を救ったのが、ドクターイースターと、ウフコックの「事件屋」コンビ。まあ、私立探偵と、検察官の中間のような仕事らしいが、彼らの使うオーバーテクノロジーによって、ある種の超能力を得て、よみがえったバロットが、自己の過去と、シェルの真意を確かめるため、そして、自分自身の「焦げ付き」を払拭し、殻を破り、生まれ出るために戦いを挑むのが、この話の大まかの導入の筋。
まあ、3巻という分量にしては、時間をかけずに読める(ある意味、あれだけ、文章に情報を詰め込みながらこれだけすいすい読めるものを書ける作者の力量は、超人的)から、あくまでエンターテインメントとしての読み物を、読みたいという方には、おすすめしておこう。
電撃文庫(角川書店) 全4巻

ライトノベルというジャンルがある(らしい)。「らしい」というのは、ライトノベルそのものの定義があいまいであり、境界線がはっきりしないことにも起因する。
「ライト」は、正しいとか、明るいとか、右ではなく「軽い」という意味だそうだ。
とは言え、何となくその辺のニュアンスが漂ってくるのは、現在「電撃文庫」などで出版されている作品、コミック風のイラストが表紙や、挿絵に入っていることが多く、扱うテーマはファンタジー、ホラー、SF、学園ものが多い。主人公は中学生から大学生くらいが多く、文章自体がいわゆる口語(と言うより、会話文ですな)。比較的セリフが多く、一文が短め。キャラクターは心理描写でこつこつと描くのではなく、最初からバ~ンと、定型的な人物像を当てはめていることが多い。
…なんのことはない、その洗礼を最初に浴びたのは、僕の世代。新井素子に、高千穂遙、田中芳樹に氷室冴子らの作品が、これにあたると、思われる。中でも新井素子は僕にとって鮮烈だった。
で、この作品も、その中に含まれると、一般には言われている。多分、その定義を用いれば、あまり間違ってはいないだろう。が、ライトノベルというときに、その対象読者層は、やはり主人公の世代、つまり中学生から大学生であると思われているようだが、もし、そうであるならば、この作品は当てはまるか、やや疑わしい。
というのも、僕たち「プチオヤジ世代」を、この作品が対象にしているようなにおいがぷんぷんするからだ。
まあ、プチオヤジ世代というのは、いまここで考えたネーミングで、だいたい昭和30年代中盤~40年代後半生まれあたりを指すと思ってほしい。
僕たちの世代の共通認識は、戦争は知らない、でも、冷戦は知っているということだ。僕たちが子供時代を過ごした頃は、ソ連と合衆国、それにその取り巻き国が何時核戦争をおっぱじめてもおかしくない雰囲気があった。だから、僕たちが思っていたのは「冷戦さえ解決すれば、世界は平和で満たされる」ということだった。
そして待ちに待った冷戦の終結。ハンガリー国境が開放され、ベルリンの壁が崩壊し、ソ連があっけなく世界地図から消えた。だが、そこに待っていたのは「平和」とはほど遠い、世界中の人が世界中の人を疑心暗鬼で見る世界だった。
これが、僕らの世代の失望感の原因(だいたい、最近はやりのエセ国家主義・エセ保守回帰ブームも、実は根っこは同じだと思っているが、この辺はまた別の機会に)。
最近、若手…といっても、僕らのプチオヤジ世代なのだが、その世代のクリエーターの作品が世に認められ始めている。そこでよく見るのが「冷戦のやり直し」だ。僕のレビューでもとりあげた「雲のむこう、約束の場所」や、「最終兵器彼女」が、そんな世界を舞台に物語を作っている(恥ずかしながら、僕自身も大学時代にそんなシナリオを書いたことがある)。冷戦の終わり方、世界の再構築の仕方を、どこかでどうにか間違えてしまった。そんな思いが強いのかもしれない。明日、核戦争が起こるかもしれない。ノストラダムスの予言は、もしかしたら、第三次世界大戦を予言しているのかもしれない。そんな閉塞感を抱えていた、僕たちの学生時代。もしかしたら、行き着く先がちょっと違っていたかもしれない世界へ思いをはせてみる。
そんな臭いがぷんぷんする。そんな作品。
前置きが長くなったが、まずは冒頭のあらすじ。
主人公は中学2年生、浅羽直之。自衛"軍"とアメリカ軍が同居する、園原基地の街、園原中学の新聞部(学校未公認)の部員。親友だか、親分だか少々属性不明の水前寺部長の腰巾着といわれながら、端から見たらえらく刺激的な日常を平々凡々に暮らしている。
浅羽は中学2年生の夏休み、園原基地をみおろせる山で水前寺と二人でキャンプ生活を送る…が、これは単なるキャンプではなく(夏休み中なのだから、その時点で普通ではない)、園原基地に出現するUFO、正確には幽霊戦闘機(フーファイター)を見つけるためである。もちろん、おいそれと見つかるわけもなく、夏休みはほぼ徒労に終わり、山を下りる二人。浅羽は、まっすぐ帰る気になれず、「気持ちいいぞ」と、噂に聞く夜の学校のプールへ。そこで、見たこともない少女に出会ってしまう。
彼女の名は、伊里野加奈(いりやかな)。偽名とも、本名とも分からぬ彼女に、成り行き上浅羽は泳ぎ方を教えることになる。そして、その彼女の両手首には銀色の半球が埋め込まれている。しかも、突然の鼻血。あたふたする浅羽。
そこに現れる榎本という男。どうも伊里野と知り合いらしい。彼曰く、「帰れ」。もともと主体性の希薄な彼は、後ろ髪を引かれるように、帰途につくが、榎本と一緒にいた男達に車で送ってもらう途中から記憶が飛んでおり、いつの間にかコンビニのベンチにいた。
混乱する浅羽。もちろん、彼の混乱はそれではすまなかった。翌日やってきた転校生は、そう、プールの彼女、イリヤだった。
おそらく、読者はタイトルと、冒頭のこのストーリーで、イリヤが何らかの形でUFOに絡み、浅羽とこのイリヤの関係を中心に物語が進むことを予測する。これを予測させて、物語のおおざっぱな地図を広げる作者の筆は秀逸だ。
もちろん、宝の地図に分かりやすいものはなく、イリヤと榎本、それに、保健室の椎名が語る断片的な情報、加えてある意味一番のスーパーマン、水前寺の拾っていく手がかりと証拠をこの地図に書き込むことによって、宝のありかがはっきりしてくる。
掘り当てた宝は、しかし、絶望的な色をしている。中学生ではどうにもならない。いや、たとえ、大学生でも、大人でもどうにもならない背景がだんだんと広がっていく。しかも、いわゆる"冷戦"状況にある世界が、刻一刻と"熱い"戦いに変わっていく状況が、生々しく描かれて、主人公達の焦燥感をよりいっそう濃密にする。
この舞台設定で、"逃げ場"を失う"普通の中学生"浅羽がとった行動。それが、この作品のキモだ。
普通の中学生にとっては、世界情勢とか、人類の未来は背負うにはあまりにも重い。たとえ、背負わなくてはならなくなったとしても、ロールプレイングゲームの主人公のように、いきなり世界を救う旅に出たりできるわけではない。その逡巡、葛藤、行きつ戻りつがプチオヤジ達のノスタルジーを刺激する。
世界なんて救えるはずがない、でも、世界を救うために、いまここにいる一番好きな女の子を渡せといわれたら? いや、普通の中学生に、これにあらがう力など無いはずだが、それを承知で渡せといわれたら?
実は、白状すると、僕はずっとこの物語を榎本の視線で読んでいた。そして、おそらく作者も榎本の視線で書いているような気がする。
榎本は、組織の側の"大人"。だが、少女を利用しなければどうにもならない世界情勢に、辟易しながら、浅羽の青臭い行動力をまぶしく見ている。そう、どこか、僕らの世代の、若い世代と、老いた世代の中間におかれて悪あがきを繰り返すジレンマに似ている。
「世界なんて、どうせ、冷戦が終わったって、よくなるはずなんて無いんだ。だったら、おまえ、青臭かった頃の俺、世界を敵に回して、自分の一番大事な者を守ったって良いじゃないか。誰もそんなことできるなんて思ってない。おまえ自身だって思ってないだろ? だったら、途中で挫折したって、誰も笑いやしない。そんな先のことを心配したって、どうせ、明日には世界が劇的に変わるかもしれないんだ。だったら走れ!」
これはプチオヤジ読者の声、榎本の声、そして作者の声なんじゃないだろうか?
エンディングは、ちょっと切ない。連載時は、ここで終わっていたらしいが、僕はここで終わった方がよかったと思う。
詳しくは書かないが、エピローグは、蛇足だったように思う。せいぜい山の中腹に、よかったマークがあることを描写されれば、それで足りるだろう。
なにはともあれ、この作品は、少年少女達のジュブナイルとしても読み応えがあるが、それよりもなによりも、プチオヤジ、冷戦世代にこそ読んでほしい一冊。
甘酸っぱいノスタルジーを少々味わえる。
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ちなみに、この作品はアニメ化されている。実は、某アニメを録画していて、見返したときにこのアニメ作品のCMに惹かれた。で、近所のレンタルDVD屋で借りてきて4巻(全6巻)まで見た。映像のクオリティーはかなり高いのだが、どうも、物語自体が平板でおもしろく無いなぁと思い、見るのをやめようかと思ったのだが、たまたま古本屋でこの原作の2巻を発見、購入。ぺらぺらと読み進め、アニメとは違う魅力を感じたので、1巻、3巻、4巻は新品で購入。1巻から読み直し、一気に読み終えてしまった。
実におもしろかった。で、DVDも視聴再開決定^^ 最後、どういう形で映像にするか。結構楽しみではある。レビューもそのうちに。
2004年秋読了

人には、踏み込んでほしくない領域というモノがある。特に自分の心酔しているモノをけなされるのは、屈辱以外の何者でもない。
が、その聖域に、あってほしくない「不満」を見つけたとき、その落胆は如何ばかりや。「かわいさ余って…」になるか、「あばたもえくぼ」になるか…。どちらにしても、出会いたくない瞬間ではある。
こんな書き出しをしたのだから、この作品を紹介するに当たって、結論は見えている。僕にとって、「松村栄子」という作家は『聖域』である。こんなにも美しく日本語を紡ぎ、切なく、そして優しい物語を形作る人に出会えたことは、『幸福』以外の何者でもなかった。
だから、この作品が、ほかの作家のどの作品に比しても、決して見劣りするモノではないからといって、手放しでは賛美できないもどかしさがある。
さて、この作品は、以前紹介した『紫の砂漠』の続編である。いわゆるファンタジー小説であるが、作者の流麗な日本語に紡ぎ出された前作が、ファンタジー小説というジャンルを越えて、文学的に秀逸であったことは、先に述べたとおりである。
もちろん、この作品においても、彼女の日本語の美しさは変わらない。比喩や情景描写の美しさは、おそらく「松村栄子」という、ブランドとしての、クオリティーは維持していると言っていい。
彼女の魅力は、そのような美しい言葉を用いつつ、それによって、まるで絹糸を紡ぐがごとき繊細さで、「主人公の心」の、揺れ動き、ほんの半歩前進を、描き出す筆の力にある。
が、今作品は「続編」という枷に縛られ、前作で描ききれなかった舞台背景や、人物設定を追うことにその作品の大半を奪われ、彼女の作品の魅力である「主人公」の心の、風にそよぐがごとき揺らぎが、つかみとれなかった。
もちろん、これは、僕自身の読解力不足かもしれない。しかし、前作から成人した主人公シェプシは、結局過去にとらわれ、かたくなにその心を動かさず、物語として、最後のページまで結局「何も始まらなかった」のだ。
ストーリーは、前作の数年後から始まる。シェプシは、詩人の死に心を閉ざし、養親にさえ心を開かず、将来を嘱望されながら、「詩人」となる。ここで言う詩人は、この世界では、最下級官吏といってよい。詩人となったシェプシは、この世界の秩序の崩壊(神話の崩壊)とともに、物語の中であかされる、政治的パワーゲームに巻き込まれながら、しかし、それに背を向けなお、心を閉ざして生きていく。
シェプシは、『死』から目を背け、ひたすら、世捨て人の境遇に自分をおこうとするのだが、その両(養)親、そして、最後にこの物語を締めくくることとなる、『神の子』(いわゆるクローンのような方法によって生まれた子供)に関わり、『達観』の境地に導かれていく。
と、書いていくと、そう悪い話でもないような気もするが、やはり、この批評を書くに当たって、改めてつらつらと読み返してみると、やはり駄目だった…。
シェプシが、『詩人』の死により、心を閉ざすことはわかる。それが、心を結びかけた『真実の恋』の人の死から、連なるものであり、果ては、悠久の過去、神世のジェセルにまで至る、絶望の結果であることもわかる。
だが、この現世界にたいして、松村栄子が与えた、あまりにも多くの試練に対しての無関心はどうなのか? それが、神の子アージュによって、いとも容易に開かれることは、あまりにも世界を矮小化していないか?
ここからは、あくまで僕の想像である。松村栄子は、この物語に結論を与えたかったのではなく、この物語『世界』に、幕を引きたかったのではなかろうか? 前作で、謎のままに終わった設定は、この作品で、あらかたその裏舞台をつまびらかにしている。
また、前作で「疑問型」でしかなかった、脇役たちの言葉に、それなりの結論を与えている。
そして、これらの物語背景を明らかにするために、主人公にはその場に踏みとどまって…、というより、その場で足踏みをしてもらいたかったのではないか? 結局世界は明るくなった。しかし、松村栄子の物語に対して、僕自身が抱く期待、心のひだを風がなでるような、そんな描写が「のれんに腕押し」になってしまった気がする。
私の大好きな作家、松村栄子の批評として、こういう書き方をするのは、忸怩たるモノがあるが、あえて言わせてもらえば、この作品は「続編」ではなく、「紫の砂漠」の、設定集に、後日談が加わったものでしかない。
「紫の砂漠」を読んで、心がふるえた人は、その期待のまま、この物語に接すると、少なからぬ失望におそわれることを、注意書きとして、この批評を閉じる。
それでも、僕は「松村栄子」に付いていきます…。