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駄目オタ徒然草
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「駄目青春の日々」(漫画評:麦ちゃんのヰタ・セクスアリス)
「麦ちゃんのヰタ・セクスアリス」立原あゆみ(第1部8巻、第2部3巻)
集英社マンガ文庫
baku

現在この装丁のものは絶版となっています


 かつて…、といっても、ほんの20年ほど前までは、未だ恋愛の神聖性は完全には崩壊していなかった。
 …などというと、おまえが年をとったからだろうといわれそうだが、この物語では実際に、まだ高校生、そして大学生たちの恋愛が「詩編のような哲学性を持った物語」として描かれている。
 それは、70年代という時代が持ち得た「空気」が生み出したものであり、おそらく21世紀のこの日本では生まれ得ない純愛の物語である。

 さて、本編の感想に入る前に、周辺のはなしをいくつか。

 まず、作者の立原あゆみについては、マンガ好きならばおそらく、あの大長編やくざマンガ「本気!」を描いたバリバリの男性であることはご存じかと思う。
 が、本作が執筆された当時、彼はもっぱら少女マンガ作家であり、その性別も一般的には「女性」であると思われていた。なぜ、彼が少女マンガを描くことをやめ、少年マンガ、しかもやくざマンガを描くに至ったかは、僕は知らない。ただ、彼が少女マンガを描いていた時代というのは、少女マンガがもっとも文学性を持っていた時代であったことは確かである。萩尾望都の「ポーの一族」、山岸涼子の「日出処国の天子」、竹宮恵子の「地球へ」etc.…と、今読んでも読み応えのある作品が、少女マンガで数多く排出されたのがこの時代である。
 一方で、少年マンガでは、いわゆるスポコンマンガが我が世の春を謳歌し、バトルマンガが一世を風靡し始めた頃であり、文学性のある作品は、雑誌のツマの地位に押しやられていた。この風潮が下火になるまで、すなわち青年誌が台頭しマンガの主流になるまで、漫画家が文学性ある作品を描くためには少女マンガでなければならなかったといっても過言ではない(たぶん過言w)。
 そういった時代状況で、文学性を前面に押し出したこの作品が、少女マンガというフィールドで発表されたのは致し方なかったかと思うし、その後、青年誌の影響で、少年漫画誌が文学性を取り戻した過程で、彼が発表の場をそちらに移していったではないかというのが、僕の邪推。まあ、それが何でやくざ漫画かはよくわからないが…。

 つぎに、この作品は第2部の中途半端なエピソードで、突然終了している。この理由も実は、よく知らない。主人公「麦(ばく)」とヒロイン「やよい」の再会の物語が続くのかと思って、もうすでに20年以上待っているのだが…。
 もっとも、むしろ、そのことがこの作品に不思議な余韻を与えている。最も大切なものを奪われた麦の再生の物語が、それこそ日常という時間を重ねるしかないのだという、当たり前の事実である。

 さらに、実は、僕は、この作品の主人公のいた場所をたどっている。現在この主人公が生まれた場所にほど近い場所に(といっても電車で小一時間かかるが…)住んでいるし、大学時代は、彼と一緒の大学に進んだ(学部は違うが)。
 いや、正確に言うと、この作品を読んで進む大学を決めたと言っていい。我ながら、なんと浅薄なとも思うが、一番多感である時期にこの作品に接したのだから、まあ、仕方ないだろう^^;


 さて、いよいよ本編の感想である。居住まいを正しながら…。

 上で、僕はこの作品を「純愛」の物語と描いたが、それは正確に言えば「命」の消滅と再生、承継に対する深い愛の物語でもある。主人公、秋田麦が、そもそも「命」に対する深い愛情を背負って生まれてきたという背景を持っている。主人公の父、秋田記(しるす)は、北海道の田舎から主人公の母、つまりその妻を奪うように連れ出し、しかし、麦の母は麦を産んでやがて命を落とす。記は、麦に妻に対して与えうる愛情のすべての注ぎ込む。有り体に言えば、死んだ人の分まで大切にするということなのだが、麦の「命」に対し敏感すぎるほどのパーソナリティーは、ここから生まれる。
 第一部の最初の方では、高校生らしい恋愛もする。ふつうに少しかわいい子に、「こんなものかな?」などとちょっと妥協した交際をする(実は、後々の麦の人生に多大な影響を与えるヒロインなのだが)。
 …が、次に出会う「星子」が、麦の人生の価値観を180度ひっくり返してしまう。彼の命に対する鋭敏さを揺すぶり起こすのが、この星子とのエピソードだ。このエピソードはその後の麦の物語の根幹に常に流れ続ける。

 さて、この作品の根底に流れるものは何か? 一つは、死という概念の再構成だと思っている。(ネタバレ→)麦の惚れた星子は、麦の入り込めなかった彼女の心の奥の「悲しみ」で自らを死へと誘わせる。麦はその死に飲み込まれようとするが、記の愛情で命を長らえる。
 ここで、麦は、途絶えてしまったものの命の継続に気づく。記が麦に注いだ愛情は、麦へのそれと同時に、死んでしまった麦の母、記の妻への愛情である。人の命の断絶は、しかし、その「人」としての断絶ではない。あるものは「血」として、あるものは「記憶」として、あるものは、それに注がれた「愛情」として、命の断絶のあとも残るのである。
 星の悲しみによって、北へ向かった麦は、バクスターという競走馬との出会い、別れ、そのことによって「命」を継ぐことを自らの未来を重ね合わせることになる。

 麦が自問するのは、常にぎりぎりのところで「命」を継げる方法の模索であったと思う。

 もうひとつ。この作品の主人公麦は、そりゃもう、もてる^^; もてて、もてて仕方がない。でも、星子の一件以来、彼のスイッチはどこかでoffになる。踏み込むことと、立ち止まることの躊躇をくりかえす。もちろん、この時代、これは、麦が特別というわけでもなかったのだと思う。たぶん、今の空気とは違うのではないか?
 そこに、70年代がある。ちょうどマンガ「東京80's」(あれも好きな作品だった)と、この時代の間に大きな断絶があったのだろうかと思う。


 まあね、実際、今読み返してみたら、結構「イタイ」麦の「ポエム」とかあって、赤面しちゃいそうなんだけど、それでも、ちゃんと居住まいを正して、真正面からこの作品を読めば、70年代の空気というか、そこに息づいていた人たちの「恋愛」に対する真摯さが伝わってくるのではないだろうかと思う。

 Amazonとかで探しても、今この作品を手に入れるのは、結構骨だけれども、もし、気になるようならマンガ喫茶なんかで探してみてほしい。
 あなたがバブル以降の青春を送った人であれば、そして、そこに何か空虚なものを感じたのならば、その空虚さを埋め合わせる何かを見つけられるかもしれない。

 今回は、あえて冒頭のあらすじは書かない。ひどく抽象的な感想しか書いていないけれども、たぶん、ボクの中ではもうすでにそれくらい消化されている作品だから、これでいいと思っている。

ps.
 実は、この感想は結局、本作品を段ボール箱から出すことを断念して、記憶に頼って書いているが、それでもかなり鮮明に情景を思い出す。それだけ、影響を受けているのだなと思う。たぶん、それもこの作品の「命」を継ぐ作業なんだろうなぁと、そんな風に思う。
 50本目の感想を、これにして、でも、書きたいことがなかなか書けなくて、結構産みの苦しみを味わいました^^; でも満足していないw また読み返す機会があれば、感想第2部でも書こうと思ってるw いや、このブログって、僕の覚え書きだから^^;

 つうことで、とりあえず50本目の呪縛から解放されました!
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「メイド萌え~」(マンガ評:エマ)
「エマ」森薫著 全7巻
ビームコミック(エンターブレイン)
ema


 さて、本当に久しぶりの感想。書きたいと思っていた題材もたまっているが、とりあえずは、一番最近読んだ漫画をば。

 というわけで、今回は「エマ」。「英国恋物語(←何じゃそりゃw)エマ」として、アニメにもなったが、そちらの方も非常にできがよかった…が、まあ、さすがに、漫画の方はアニメでは背景でしか語られない部分まで、こってりねっとりとかかれており、7巻というボリュームであるが、かなりおなかいっぱいになる。

 誤解を招きそうにも思えるが、あえていえばプロットはシンデレラである。不幸な灰かぶりが美しい衣装ではなく、知性を与えられ、王子様ならぬジェントリーに見初められる話。
 これを、英国がもっとも輝いていたヴィクトリア女王の時代という舞台に置き、作者による徹底した取材と趣味により、本当に細部までてディテールにこだわって大人の漫画として仕上げている。
 作者は女性であるが、描かれるラインはいわれるまでわからないほどに骨太である。この手の漫画を女性作家が描くと、その時代にはあり得ないような細身にしてみたり、手足を蜘蛛のように伸ばしてみたりするものであるが、作者の森薫は見事にふくよかな体をコルセットで絞り込む当時の女性の豊かなラインを再現して見せている。
 男性の方も、貴族やジェントリーの「カチ」っとした姿と、市井の人々の風俗を飾ることなく描いている。そこに「嘘」を入れないことで、何となくマンガっぽい登場人物の「顔」の違和感を払拭している。
 もちろん、町の風景、屋敷の調度、ちょっとした小物についても、コマの片隅にでてきて、ほとんどの読者が見逃してしまいそうな部分まで徹底してこだわっている。

 ところで、同時代(といっても、ヴィクトリア朝後の第一次世界大戦の頃であるが)の英国を題材にした作品として、以前にも引き合いに出した小説、ゴールズワージーの「林檎の木」がある。
 英国は現在でも階級社会であるが、これらの作品の背景になった時代では、現在よりももっと厳然とした階級社会が存在する一方、従来の階級制度を破壊するような「資本家」という階級が生じた時代である。「林檎の木」では、これらの階級制度自体を「知っている」ことが物語の理解に重要になるが、それ自体が正面切って物語を動かす力にはなっていない。しかし、上流階級の者と農夫の娘という当時としては「許されない恋」の物語であり、結果としてそのことが隠れたきっかけとなり、一つの悲劇を生む。
 もっとも、この悲劇の引き金は実は日本人である僕たちは、知識としてわかっていても、いわれないと気がつかない(特に僕がこの作品を読んだのは中学生の時であるからよけいであった)。せいぜい武者小路実篤の「友情」程度の話でしかないと思えた。
 が、「エマ」では、まさにこの「階級制度」自体が主人公たちに前に立ちはだかる障害そのものになっている。おそらく英国にこの話を持っていけば、かなり陳腐なお話になるのであろうが、こういった事情の知識を「実感」として持たない僕たちにとっては、非常に「わかりやすい」物語の横軸になっている。

 最初に述べたように、この物語は「灰かぶり」の物語である。が、シンデレラで語られるのは、王子様に見初められるまでの物語であり、そこから先、灰かぶりが王室に迎えられるエピソードはない。しかし、「大人」が絶望するのは、たとえ王子に見初められたとしても、せいぜい灰かぶりなど「側室」止まりにしかならないことにある。「血」というつながりをもっとも重視する階級制度においては、出自のあやふやな者の「血」を混ぜることなど、言語道断なのだ。
 だから、この物語は、灰かぶりが王子に見初められた後、その身に受けるであろう苦難をこれでもかというくらいに劇的に描いているといえる。
 そういう意味で、僕はこのマンガを「大人の」と表したわけである。

 と、ここまで、こう書いてきたものの、では、大人の鑑賞に堪えられる「作品」にまで昇華できているかといわれれば、多少の躊躇がある。
 確かに、これでもかと苦難にぶつかるヒロイン、エマと主人公ウィリアム。ウィリアムに思いを寄せ、一度は婚約者の地位まで自力ではい上がるエレノアの…ムニャムニャ…にしろ、その心情に葛藤は描かれているものの、人間の見せる弱さによる「想いのぶれ」があまりなく、よく言えば「純粋な物語」であり、悪くいえば「物語としての底が浅い予定調和」ものになっているような気がする。
 それは、ほぼ1巻で出尽くしたキャラクターたちの、読者が予想するであろう結末通りに7巻でお話が収まっている点からもわかる。
 ただ、弁護するならば、実は作者はこんな長編を予定しておらず、3巻程度でお話をまとめるつもりであったのではないかと思われる。そうであるならば、よけいなブレを作る余裕はなく、その尺にきちっと収まるストーリーを作る上で、1巻であまり複雑なキャラクター設定はできない。しかし、最初からこれほどの長編にするつもりならば、この作者はたやすく「できた」と思われる。
 そのことは、5巻にでてきたウィリアムの父リチャードの若かりし頃のエピソード、そしてその伏線から紡ぎ出される7巻の最後での彼の妻、息子たちとの会話。そこから描かれる彼自身の物語からもうかがえる。実は、この作品で一番心情を人間らしく描かれているのはウィリアムの父であるように思われ、そういった「キャラクター」と「物語」を作れる作者にとって、作品全体をもっと複雑にし、人間を描くことは、さほど難しいことではなかったのではないかと思われる。

 7巻で、作者の森薫は、あとがきマンガに「外伝」を書くと書いているが、さて、どの辺だろうか? 極悪子爵wやドイツ人実業家のヴェルヘルム・メルダースの物語がこってりと読んでみたい気がするのは、僕だけかな? きっと、おもしろいに違いないと、5巻を読み返して思っているのは、僕だけかな?

 さて、冒頭のあらすじ。新興ジェントリーのジョーンズ家跡取りぼんぼんウィリアムは、ある日父にいわれて、かつての家庭教師ケリーを訪ねる。ウィリアムはケリーがずっと苦手で敬遠していたのだが、それでもこの日は仕方なく挨拶に出向いた。ところが、ケリー家に入ろうとしたまさにその瞬間、勢いよく開いたドアで顔を打ち付けてしまう。驚いて顔を上げたそこには、眼鏡の麗人メイドが…。ウィリアムは一目で恋に落ちた。ただ、その辺に疎いウィリアムは、それでも必死になって、ケリー家を辞去する際に、わざと、ハンカチを忘れていく。ケリーはその意図を理解し、メイドのエマに手袋を届けさせる。
 そして、恋物語が始まる…。


ps
 さて、いよいよ次回は50本目の感想文。ああああ、あんなに構えなければよかったw 「僕たちの疾走」か、「麦ちゃんのヰタセクサリス」の感想を書こうと思って、未だに迷っているが、問題は両方とも片づけて段ボールにはいって、簡単にでてこないこと。読み返さないと書けないwwww
「豪華フル装備」(まんが評:いちご100%)
※ リンク等、未完です。とりあえず、アップ。後日修正(この注意書きがとれたら、完成版です)

いちご100%

 よくできた作品であると思う。少し斜に構えた見方をすれば,ある種の様式美を兼ね備えた作品であって,まさに,パターン通りに展開しパターン通りに人気を得たのだと思う。

 かつて,週刊少年ジャンプが,中高生男子の過半数を愛読者としていた時代,異端とされながらも,一部読者の熱狂的な人気を得ていた作品として,まつもと泉の「気まぐれオレンジロード」があった。この作品と,ほぼ同時代の少年ビッグコミックに連載されていた,あだち充の「みゆき」。これらが,いわゆる,少年誌におけるラブコメ時代の本格的幕開けとなる記念碑的作品であったと思う。
 いちご100%は,これらの作品の,正当な血筋をひく作品であると言ってよい。もちろん,時代の流れの中で,ゲームから発生した,ハーレム系恋愛シミュレーションと言う要素も組み込まれているが,そのハーレム系恋愛シミュレーションも,元を正せば,やはり,「気まぐれオレンジロード」「みゆき」に行き着くというのが,僕の持論である。

 そして,これらの作品の系譜を引きヒットしたラブコメ作品は,ある種の定式を内在している。だから,言葉を選ばずに言えば,この定式さえ履践していればヒット作品になるはずなのだ。
 が,残念ながら,この定式をしっかり履践することは,実は難しい。そこには作家の能力という大きな障害が立ちはだかる。その障害をしっかり乗り越えて,この作品をヒットさせた河下水希と言う作家は(あるいは,やや揶揄を込めて言えば,その担当者は),相当な実力を持っているといえるだろう。

 さて,大仰に「定式」と言っても,この辺は素人でも分析はできる。と言うわけで,いくつかあげてみよう。

 まず,主人公は,(1)容姿・運動能力など秀でたものを持っていない。ただし,(2)やさしさ,いざというときの意外な頼もしさ,何かに対する一途さを持っている。そして,(3)同年代の少年が持っているエッチな好奇心をしっかり持っている。
 要は,等身大の少年漫画誌読者像である。かつての少年ジャンプ黄金期のように,優等生からオタク,スポコン少年まであらゆる層が,少年漫画誌読者であった時代,これを標準化することはおそらく,困難であったろう。が,時代の流れと共に,少年漫画誌読者層は,ある種の収斂を見せていると,僕は分析している。すなわち,いわゆるコアなオタク層は,ゲーム・創作活動へと流れ,まず脱落した。さらには,現実に女の子と恋愛をすることが,かつてほど困難性を伴わなくなったため,いわゆる「ややモテ」層が,マンガに割く時間とお金の関係で,コアな読者層から乖離し始めた。そんな形で読者として残ったのは,いわゆる「普通」の中高生男子とスポコン少年である。要は,この層をターゲットにしたマンガこそが,売れる少年誌連載マンガだと言ってよい。
 上に上げた,主人公像は,この「普通」の,やや願望を込めた中高生像である。

 では,この「普通」の中高生たちが求めるものは何か? 現在では普通に女の子と「つきあう」ことが,それほど困難でなくなったことから,単に一人の女の子に好かれる,一人の女の子を振り向かせるというテーマは,現実にありきたりになりすぎて,カタルシスを生まないものになった。
 そこで,複数の女性に惚れられること。それも,単なる複数ではなく,質・量共に「選択」の困難性を生み出すだけの「モテ」が必要となったのである。
 もちろん,ラブコメ黎明期のころでも,「質」に関してはしっかりクリアしていた。例えば「気まぐれ~」では,まどか,ひかるともに,それぞれ違う魅力を持った美人であるし,「みゆき」では,二人のみゆきは,際だった性格のコントラストを見せながら,やはり美人である。が,この時代性なのか対抗軸にあるのはせいぜい2人である。
 もちろん,現在ヒットしている「藍より青し」や「いちご100%」も,軸となるヒロインは2人に絞られるが,その周りのサブキャラヒロインが,ヒロインたちに負けず劣らず魅力的に描かれ,彼女たちのエピソードで数話費やされることが珍しくない。実際に「いちご100%」では,まるまる単行本1冊メインヒロインの一方が出演していない巻がある!

 が,勘違いしては困るのだが,実は,このタイプのラブコメのキモは,「もてること」そのものにあるのではない。自分を想ってくれる可憐な美少女を「振る」ことに,読者はセンチメンタリズムを味わうことを求めているのだ。
 実際には,ほとんど何の取り柄もない,これらの作品の主人公に,複数の美少女たちが惚れること自体が,「あり得ない」ことであるのだが,読者の「あり得ない」は,そこにではなく,誰も振らずに,みんなとハーレムハッピーエンドになることにある。
 本来なら,基礎の部分で「あり得ない」設定なのに,そこから生じる「一人に絞らなければならない」葛藤に,読者はリアリズムを感じている。そして,そこから生じるセンチメンタリズムこそが,この手のラブコメが「普通の」中高生のハートをわしづかみにする要因だと,僕は思っている。
 だから,良作と呼ばれるこのタイプのラブコメは,クライマックスに至る段階で身辺整理と称する(笑),本命以外切りを決行する。それまで,わき目もふらず主人公を思っていてくれた美少女を,「ほかのヒロインが好きになった」という理由で「切る」のである。まあ,普通に考えてみれば,ここまで引っ張らずとも(いちご100%なら,最終決断は18~19巻!),何とかなるだろうと想うが,それでは,長期連載は望めないので,なんだかんだで主人公に優柔不断な宙ぶらりんを強いる。考えてみたら,こんな主人公「鬼畜」である^^;。

 さて,話を戻す。次にヒロインのパターンを考えてみると,これも見事にいくつかの属性の組み合わせでできているといえる。すなわち,(a)優等生vs元気娘 (b)ロングヘアvsショートヘア (c)同級生vs年下 (d)和vs洋 (e)家庭的vs社交的 (f)おぱ~いvsぺちゃ^^;;;; (g)トーンvsベタ(笑) と,大体これらの対立軸をメインヒロイン2人に振り分けていく。そのうえで,小道具として,①めがね ②幼女 ③妹 ④お姉さま ⑤おせっかい ⑥ツンデレ(苦笑) ⑦転校生 ⑧おさななじみ ⑨ツインテールw ⑩帰国子女 ⑪超能力(ぇ ⑫お金持ち ⑬男嫌い ⑭どじっ娘 あたりを,それぞれメインヒロインか,もしくはその他のサブヒロインたちに分配していく。サブヒロインたちは,必ず,この属性の1~2個を持っている。
 まず,最初の対立軸は,よく中高生が「おまえ,どっちがいい?」という質問の中ででてくる属性。後者の属性は,全ての中高生が持っている妄想ではないが,ある程度の数その嗜好を持つものがいる属性。
 そう,ヒロインたちの属性は,ここで好みが分かれますという,中高生の願望そのものなのである。いちご100%のヒロインたち(もちろん,藍青やきまぐれ~,みゆき,それからねぎま(読んだことないけどw)でもいい)に,当てはめてみてほしい。

 こんどは,男サブキャラ。基本的には,主人公よりいい男はフェードアウトするか,とんでもない醜態をさらして敗走するか,すくなくとも,メインヒロインからは,一顧だにされない。本来であれば,主人公よりずっと魅力的である連中は,主人公の振られたもう一方のメインヒロインを拾っては行かない。それでは,なんだか贖罪になってしまい,読者のセンチメンタリズムは半減してしまうからである。これはまずい(^^;。
 あとは,本当はスーパーマンであるのに,もてないブレイン(いちご100%では,外村)がいることが,最近の作品には多いように思う。あくまで印象なので,なんともいえないが…。
 それから,主人公以上にもてない「救われない」くん。これは,主人公が単なる「女のケツばっかり追っかけてる腐れ外道」でないという,言い訳のために配置されるのであると思う。まあ,小宮山,ほんとに,いいやつなんだけどなぁw。

 で,あとは環境。2人のヒロインと主人公の距離は等距離であってはダメ。かならず差を設けて,お互いのヒロインに時間的場所的ハンデを与えて,その隙にできるエピソードで,主人公とよろしく…やれそうになって,じゃまがはいるとw あとは,主人公の決断まで,これの無限ループを繰り返し,連載を先へ,先へと延ばしていく^^。
 あ,あともうひとつ。ヒロインたちは,絶対に浮気をせずに待っている。言い換えれば,「都合のいい女」なのであるが,その辺は,軽くスルーでw(重要な要素ではある)

 以上が,大体,設定の定式である。

 が,もう一つ,これができないので,大体こけて,連載が打ちきりになるのだが,「女性を魅力的に描く」。
 実は,これが一番,高いハードルであると思う。いかに設定を定式通りに配置しても,絵はもちろん,しぐさや表情,言葉遣い。これを練りに練って,その少女たちの息づかいをいかにリアルに描き出せなければ,その作品は駄作となる,この点が,最終的には最も重要。

 さて,というわけで,いちご100%というより,ヒットするラブコメ分析になったが,要は,この作品はこれらを全部ひっくるめて豪華フル装備していると言うこと。
 特に,女性の描き方がいい。
 東城綾と,西野つかさの2人が,ほんとにくっきりとコントラストを描いている。これに主力サブヒロインの北大路さつきと南戸唯の絶妙の配置。特に,さつきに関しては,でてきた瞬間涙がでてきたよ,私はw 「ティナ,ティナがいる…(号泣)」。絶対,もう,作者が発狂しない限り,この属性の子のハッピーエンドはないと,最初からわかってるから,作者がこの子を,ほんとに丁寧に描いている姿勢(ある意味メインヒロインより丁寧に描かれていた)に,いたく感動した。先の定式とはちょっと違うが,振られるのがわかっているサブヒロインのけなげさを,ここまで丁寧に描いたからこそ,メインヒロインの魅力が浮かび上がってきたんではないかと。これだけ一途にがんばっているすてきな子でも,適わない二人。これは,お話しに説得力を付ける意味で,見事な道化役だった(再び号泣)。
 唯に関しては,少々使い勝手が悪かったのか,家出エピソード以降一線を退かせたのも,好判断。この子を一線から退かせることによって,主人公と西野,東城との関係性の微妙なバランスにうまく波紋を広げられたのだろう。加えて,この子が持っていた「幼なじみ」「妹」属性は,実はメインヒロインが持っていることが多い属性なので,これを最前線から解放することで,メインヒロインを食い過ぎなくなったという点がよかったかと。これ,唯が全力で主人公を落としにかかったら,落ちない方が説得力なかったかとw。
 あとは,おそらく連載延長の結果,だらけた関係に,端本ちなみ,向井こずえをカンフル剤として投入するも,本格参戦させることなく,あくまで後方支援要員としていたのも好判断。向井に関しては少々主人公と絡みすぎた感もあるけど,なんだか作者も気乗りしていなかったみたいな印象は受ける。実際この二人は,派手な「振り」エピソードもなく,別の恋を見つけているので,まあ,最初から,前線の兵士としては構想していなかったことは明らかかと。

 で,最後に。この手の話の王道で行けば,ハッピーエンドは基本的には東城になるはず。ただ,西野ハッピーエンドパターンも,ないわけではない。この辺は,どっちに転んだから良作と言うことはないのだけれど,ならば,もう少し,東城以上に西野が主人公に思い入れを持ったエピソードを,説得力つけて語ってほしかったかと。
 罰ランニングの姿と,懸垂告白だけでは,どうしてあそこまで西野が主人公に執着するのか,特に東城が主人公に思いを抱く理由が,説得的すぎたので,この辺は最後まで,西野の「かわいさ」にごまかされた気がする。

 さて,最後に断っておくが,僕自身はこの作品については,おもしろいが読む価値はないと思っている。エンディングに感動することはなかったし,4年という月日だけで,主人公の成長を片づけるのは,正直もうやめていただきたいパターンではある。
 また,最後の同窓会で,ジャンプの3要素「努力」「友情」「勝利」が,そこはかとなく並べられたが,正直「それで?」という気がする。
 ただし,逆説的だが,読んで「おもしろかった」というのも本音。三十うん歳のおっさんが,何を青臭いと,いわれそうだが,こういう恋はしてみたかったというのは,幾つになっても男の偽らざる本心ではある(たとえ,時間をさかのぼれても絶対に満たされないがw)。ただ,そのカタルシスが満たされる満足感だけ(あとは徒労感しかのこらんw)を堪能したい方に,おすすめ。
「自伝"的"」(マンガ評:上京ものがたり)
※ リンク等、未完です。とりあえず、自分で決めた納期厳守のためにアップ。後日修正(この注意書きがとれたら、完成版です)

上京ものがたり小学館
西原理恵子
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 ご存じ「オヤジ転がし(いしかわじゅん命名)」で、有名なりえぞう先生の近著。とはいえ、出版からもう1年近くたつし、彼女の作品としては、あまり話題にならなかったと思われる1冊。
 「晴れた日は学校を休んで」と同系列のこの作品は、一歩間違うと、読者に彼女の「自伝」とも追わせる勢いがある。いや、実は僕もそう思って読んでいた。が、各種インタビュー記事や、彼女のプロフィールなどとの整合性から、「ちがうっぽいよ」との、妻の指摘で、「そっかもね」と、納得。
 確かに、同書の記載はおろか、帯にも、「自伝」なんてことは一言も書かれていないから、思いこむ方が間違いなんだろうね。それでも、同書の中には、彼女の経歴とオーバーラップするところも少なくなく、「自伝的」と、枕詞をつけるくらいには、それっぽいのかもしれないと思う。

 さて、この作品で冒頭のあらすじを書くなんて、野暮なことはしない。書店で5分もあれば最初の雰囲気を体験できるだろうから、是非見つけたら、ぺらぺらとページをめくってほしい。
 この作品のおもしろいところは、そのキャラクターの絵柄だ。もちろん、りえぞう先生の風味は残しつつも、今までとどこか違うタッチ、そして、キャラクター造形をしている。表情の作り方だって、ほかの作品のように、むやみやたらにはちゃめちゃな崩し方はしない。全体的なイメージとしては、今までの彼女とは違い、慣れない絵柄を、時間をかけて、丁寧に描いている雰囲気がある。もちろん、彼女が変節したのでないことは、現在毎日新聞に連載している「毎日かあさん」を読めば、はっきりするから、あえてこの作品のために、タッチと、お話の雰囲気を作っているといえる。
 この辺は、下手だ、下手だと言われつつも、やはりプロの漫画家なのだなぁと思うところ。実際、表紙の主人公の絵柄などを見ても、こんなにすばらしいラインをかける人の絵を、下手だと評価する人の審美眼を疑ってしまう。いや、僕は一度だって、下手だなんて思ったことはないですよ。

 絵のことで言えば、相変わらず、その描く風景は美しい。最後の2ページに描かれる山々の稜線の、なんと美しいことか。その前ページ右上のコマの街の絵の、なんと寒々しいことか。
 もう、この3ページを見れば、彼女の絵の才能を疑うことはできないだろう。

 さて、この作品が自伝でないというのは、冒頭で述べたとおり。ただ、彼女の作品、絵に対するスタンスは、作品全体を通して、そして、これも最後の3ページで、バン!っと、提示されている主人公の言葉に代弁させているのだろうと思われる。
 そして、それは、ただのギャグ漫画家としてのそれではなく、東南アジアの片隅で、路上の少年たちを見て、ふと心にとまったことを書き留めた一文などに示されるように(「鳥頭紀行」参照)、とても深遠な思想に基づいている。
 では、彼女のその深遠な思想が、どこから生まれたのか? それは、この作品に描かれている、ほぼ事実であろう、水商売のバイト先での経験、出版社に根気強く持ち込みを続けた経験、そして、美術学校時代の同級生に対する冷めた想いが、彼女の幼少時代の経験とオーバーラップし、人への慈しみという形で現出したものだと思われる。

 だから、彼女の作品が、なぜか、心の奥の深いところに届くのは、きっと、そういう訳なんだろう。
 西原理恵子にハズレなし。当分、その評価は動かないように思う。

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ボクのなんかより、より良く、この作品の雰囲気を伝えているレビュー
http://sasa.cocolog-nifty.com/something_like/2005/01/__.html
「ツンデレは萌えているか?」(漫画評:バドフライ)
バドフライ」全3巻(スピリッツコミックス)
著者:イワシタシゲユキ

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 バドミントンというと、その競技人口や公衆への認知性の割には、「マイナースポーツ」というイメージが強い。上記の通り、競技人口や公衆への認知度を考えれば、マイナースポーツというよりは「地味スポーツ」という方が正しいかもしれない。
 実際、競技の認知度・人気度を測る尺度の一つである「漫画化」でも、この競技はあまり高いポイントを得ているわけではない。

 さて、そんな中、今回紹介するのは、そのバドミントンを題材にした数少ないマンガの一つ。しかも、スピリッツ連載にありながら単行本3巻で終わったという、まあ、不遇の作品。
 でも、ボク自身は非常に好きで、スピリッツはこれと「20世紀少年」「東京80's」のためだけに「立ち読み」していた。
 正直いえば、例えばこの作品がその題材に卓球を選んでいようが、セパタクローを選んでいようが、多分、好きだったろうと思う。実は、この作品のヒロイン鈴森秋葉のツンデレぶりにのっけからべた惚れになったことを白状しよう。
 そう、題材は何でもよかったのだ。このイワシタシゲユキ氏の描くヒロインが、この作品の魅力。最近のマンガでは最強のツンデレヒロインであると思っている。まあ、ツンの部分が激しく表面にでているから、それでもめげない主人公茂一の熱意が、暑苦しくならないという(計算したのか、してないのか? 多分前者だと思う)キャラ配置は絶妙だった。
 キャラクターのデザインも、イワシタシゲユキ氏が、こういう目のつり上がった勝ち気そうな美少女画を得意としていたということも奏功して、ヒロインの内面をよく表したすばらしいものになっている。主人公やそれを取り巻く男友達の配役も、べたではあるが、無駄がなく、しかもキャラデザインも秀逸。

 さらに、この作品の面白いところは、敵はライバルではなく、身内であるということ。もちろん、主人公にライバルはいるのだが、純粋にバドミントンのうまい超えるべき壁として、比較的無機質に描かれている。むしろ、ねっとりとした描写によって、不気味さを醸し出しているのは、サディスティックな女コーチ(このキャラも、すごくいい味出してる)。加えて、身内なので、その真意が分からないままのサディスティックなしごきは、主人公やヒロインにとっての敵なのか、味方なのか、分からないままの苦闘として、読者に焦燥感が伝わってくるうまい演出になっている。

 さて、冒頭のあらすじ。
 汗っかきで、目がドングリ。実は強靱な足腰と驚異的な動体視力で、スーパーヒーローの素質をもっているのだが、そういう部分が開花する前に、主人公如月茂一は高校に入学する。入る部活動も決めかねていたところ、クールビューティー、この作品のヒロイン鈴森秋葉に偶然出会い、電撃的に一目惚れ。いきなり交際を申し込むが「私に、バドミントンで勝ったらね」という条件をつけられる。根が真っ正直な茂一はその提言に乗っかって挑戦をする。が、彼女は、実は、男子バドミントン部のマネージャー。廃部寸前のチームを救うべく部員勧誘に体よく使われた格好に。
 しかも、彼女は膝を壊すまでは、この学校の女子部(強豪)のエースだった。もちろん最初は、茂一がかなうはずもなく…。しかし、少しずつこつを覚えてきた茂一の顔からは、それまで滝のように流れていた玉の汗が消えていた…、そして…。

 ということで、まあオーソドックスとは言い難いが、この作品もスポーツ(ラブコメ)マンガの定型はきっちり踏襲している。
 が、非常にいいにくいが、なぜ、人気がでなかったのか…。

 一つには、バドミントンという題材を選んだ影響は少なくないだろう。冒頭にも述べたように、バドミントンは競技人口も多いし、公衆への認知度も高い。しかし、では、だからといって、世界のバドミントン勢力図はどうなっているのか? 日本国内ではどうなのか? バドミントンのゲームルール、ポイントはどうやって計算するのか? 果たして、知っている人はどれくらいいるのだろうか?
 この辺、サッカーや野球はおろか、愛ちゃん人気でとみにその認知度が高まった卓球などに比べても、かなり難しい。
 加えて、競技をしていた人には当たり前なのだが、実はえらく体力のいるスポーツだということは、あまり認知されていないような気がする。体力の固まりである茂一が作品内でへたばってしまい、ヒロインの秋葉が、膝を壊してしまうほどの激しさに、一般人の認知度ではリアリティー実感できないのではないか?

 次に、このキャラクターデザインの取っつきにくさが、一つの壁になっているとも、思われる。これも拙文の冒頭で書いたとおり、ボクが惚れるきっかけになった要素の一つであるが、あのキッツイ表情のヒロインは、まあ、微妙ではある。
 彼女がほおを真っ赤にして照れるシーンは、ツンデレ萌にとっては、至福の瞬間だろうと思うが、そうでない人には、「その顔のままで照れるな、キモイ!」ってことになりかねないよなぁと、あくまで想像だが思う。この辺は、現在一般に受け入れられている、いわゆる「かわいい」キャラクターデザインの中では異色が故に味わう悲劇かもしれない(が、ボクは大絶賛)。

 さらには、スポーツマンガにしては、その画風が躍動感を表現しにくいものであったことが、また一つの問題だったのかもしれない。それはそれでいいと、ボクは思うのだが、その対極にある、例えば曽田正人のマンガなんかを見ていると、あちらがシャッター速度をあえて落として、しかも、パースなんかがゆがんでもお構いなしの臨場感で、その動きを写す手法で画面を構成しているのに対して、イワシタシゲユキ氏のそれは、高速シャッターで、しかも、光量を最大限にあげて「光」だけの画面を構成し、あえてそのキャラクターが最大限かっこよく写るよう緻密に計算しつつ画面を構成しているように思う(実は両者とも、非常に計算された画面構成をしていおり、目指すところは同じであるということは、よく見れば分かる。特に、イワシタシゲユキ氏の一コマ一コマは、それだけで鑑賞に堪えるものばかりだ)。
 この辺は、読者によっては、スポーツマンがとしては非常にまったりした作品に見えるのではないだろうか?

 というわけで、個人的な意見としては、この作品は非常にすばらしい作品であるが、「読者を選ぶ」という意味で、とんがったが故に、一般受けしなかったと、ボクは感じている。
 次回作も、非常に期待しているのだが、できればこのとんがり具合を、丸めて一般受けした作品にならないように祈っている。でも、そうしないと売れないし…。売れないと、短期連載で終わるし…。痛し痒し…。