監督:佐藤竜雄
久しぶりの映画評。と言っても、DVDで見たものなので、劇場のニュアンスは伝えられないかもしれない点は、ご了承を。
ちなみに、ナデシコをご存じない方でも「劇場版」とあることからわかるように、この作品にはテレビ版が存在する。で、テレビ版がある場合の映画化というのには、いくつかのパターンがあることもまた、ご存じの通り。具体的には、(1)テレビ版のダイジェスト(機動戦士ガンダム三部作など)、(2)テレビ版のリメイク(ラーゼフォン・エスカフローネなど)、(3)テレビ版の設定を使った新エピソード(うる星やつら・ルパン三世・ハム太郎・ドラえもんなど)、(4)テレビ版の後日談・同窓会・続編(鋼の錬金術師・ガンダムWなど)と、いったところ。
で、この機動戦艦ナデシコは(4)のパターン、つまり、後日談に当たる。この後日談ものというのは、作り方によっては、いわゆる「一見さんお断り」状態になるのだが、このナデシコがまさにその典型的な作品。とにかくテレビシリーズを見ていないと、話の冒頭から全く訳がわからない状態になる。
が、その作品自体のクオリティーがかなり高いため、この前提、つまり「テレビシリーズを見た」という人にとっては、かなり楽しめる内容になっている(ストーリー自体の好き嫌いはあると思うが…特に、テレビ版に愛着がある人にとっては)。
で、このレビューは、一応、テレビ版を見たことを前提に話を進めることにする。そうしないと、本当に何もかけなくなってしまうから、これはご了承願いたい。
ちなみに、私自身は、何度も書いたが、angelaのファンで、彼らが「ナデシコ」のトリビュート作品をこの夏にリリースするということから、あわてて、テレビシリーズを全話一気視聴したところ、まずまずおもしろかったので、映画版を見たと言う経緯がある。そして、正直テレビ版より映画版の方がおもしろかったと言うのが感想。ただ、テレビ版も、あの時代に、ああいう作品をテレビ放映したということだけで、拍手喝采だということは明記しておく。たぶん後日、テレビ版のレビューも書くつもりだが、まあ、予定ですから^^;。
さて、物語は木星連合(木連)と、地球の戦争から3年の月日がたった時点から始まる。平和なはずの太陽系、その宇宙ステーションがいきなり狙われ、大戦闘になる。なにやらきな臭い計画が進行しているようだが、宇宙軍は重い腰を上げず、かつての戦争で活躍したナデシコ(実は後継艦のナデシコB)が調査にかり出されることになる。
ここで、テレビ版の主人公天川明人と、ユリカの登場!…のはずが、明人と、ユリカはでてこず(というか、二人のお墓に、ユリカの父親がお参りしてるし!)、いきなりテレビシリーズ中、サブキャラの中でもっとも人気の高かった星野ルリが、試験戦艦ナデシコBの艦橋に現れ、画面に向かって「こんにちは」と、一礼するところから、スタートする。この演出はテレビシリーズを見ていた方には、秀逸だが、見てない人にとっては、いきなりで驚かれることだろう。とにかく、ナデシコはテレビシリーズの時から、画面の前の視聴者をいきなり画面に引きずり込むような演出をしていた。これは、監督、佐藤竜雄の十八番なのだが(ステルヴィアでもやっている)、いきなり劇場版のスクリーンからやられるとは思わなかったので、驚いた(まあ、今回、私の場合はモニターだったが、当時劇場で見ていた人にとっては、準備態勢が整う前のいきなりのジャブで、驚いたことだろう)。
しかも、劇場版では、この星野ルリが主人公で、ナデシコの艦長(ちなみに、テレビ版でも艦内人気投票で艦長に選ばれる話があったが、そのときはルリは辞退している)。テレビ版の主人公とヒロインはいきなり蚊帳の外…、だけならまだしも、「お亡くなり」になってしまっている…。いや、えらく思い切ったことをするものです。これは、「こんにちは」ジャブに加えて、さらにワンツーを食らったようなものだ。
調査に向かったその先の宇宙ステーションでは、宇宙軍と統合軍の板挟みで損な役回りをさせられても、淡々と任務をこなすルリ。けなげです…。ところが調査中に、謎の機動兵器の襲来。戦闘になるが、宇宙軍所属のナデシコは、統合軍の戦闘には加われず、傍観状態。ステーション内にいた、ルリはコンピューターの暴走で、画面一杯に表示される「OTIKA」の文字に「はっ!」としてあわてて避難民を引き連れナデシコに帰還。
大立ち回りを演じる黒い機動兵器は、ステーション内の何かを狙っているらしく、その友軍戦艦と連携して、見事な陽動をし、まんまとステーション内に進入。たった一人、その陽動に気づき追いかけてきたのはかつてのナデシコのクルーで機動兵器エステバリスのパイロットリョーコ。
何事かに気づいたルリは、追いかけたリョーコに頼んで、黒い機動兵器(ブラックサレナ)と通信を試みる。ブラックサレナのパイロットは「みたいなら、ついてこい」とだけいって、ステーション内の秘密ブロックに進入する。追いかけるリョーコ機、進入路を進むにつれて、リョーコの表情が豹変する「なんなんだよ! これは!」絶叫し取り乱すリョーコ。そこで見たものは、かつて火星にあった遺跡。そして、その下には旧ナデシコが…。
ここで、今回のラスボス「北辰」操る機動兵器出現、「女の前で死ぬか?」とブラックサレナのパイロットに。女とは、リョーコではなく…、そして、遺跡がつぼみが開花するように開くその中に…、何かに気づくリョーコ。覚悟していた自体にこわばるルリ。そう、そこには…、そして、ブラックサレナのパイロットは…。(あとは、映画を見よ!)
この佐藤竜雄という監督は、「活劇」のなんたるかを、よく理解し、非常にエンターテインメント性のある作品を作る人なのだなぁと、改めて感心。
ここまで、ストーリーをもってくるのに、この勢いで情報量を盛り込みつつ、単なる説明に終わるわけではなく、ちゃんと見せ場を作っている。もちろん、視聴者がテレビで培った共通理解があることを前提に、思い切って、テレビ視聴者以外を切り捨てる潔さも見事。
確かに、「映画で、初見の人を切り捨てるのはいかがなものか?」という批判はあると思われるが、そんなことをいったら、スターウォーズシリーズや、スタートレックシリーズの存在意義さえ否定してしまうことになるから、この批判は的はずれ。
さらに、テレビシリーズで語られたルリのバックボーンを崩すことなく、そして、テレビシリーズの視聴者なら誰もが納得する二代目ナデシコ艦長に就任させ、物語の連続から生まれる必然性を、そのまま、サプライズの緩衝剤(テレビ版視聴者からすると、あまりにも旧主人公を取り巻くシチュエーションが変化しすぎているにもかかわらず、ルリの存在がすべてを引き受けて、すべてをつなぐ中心になっている)としてもちいている点も、見事としかいいようがない。
率直な感想をいえば、最初に述べた映画版作成パターン(4)の方法論としては、ほぼ完璧なのではないだろうか?
もちろん、作品の"絵としての"クオリティーがダメなら、端から問題外なのだが、この作品は、劇場に耐えうるだけの緻密な作画、美しい動画で作成されている(イノセンスのIGが絡んでいることを、視聴後に確認。なるほど納得)。
この作品を見るためだけに、30分×26話、計13時間を費やして、テレビ版を全話視聴しても、もったいないとは思えない。それだけのクオリティーの作品だと思う。テレビ版を全視聴する根性のある人「必見」!
ただ、その船のクルー以外は…。
「劇場版 AIR」 2月10日 池袋サンシャインシネマ

レビューを書こうと思ったら、たいがいのことは、既に誰かが書いていた。だから改めて書く必要もないかと思うが、ここは僕の覚え書きの場所だから、ひねくれた文章で、似たようなことをつらつらと書き殴ろう。
さて、残念ながら「ゲーム AIRの映画化」という点では、明らかに失敗作である。もっとも、括弧の中の限定をとれば、それなりによくできたラブストーリーだと思う。
ただ、残念なのは、わざわざこの映画に足を運ぶ客層は、括弧の中を前提として見に来る人がほとんどだということだろう。
昔、といっても、十数年前、「Summer Story」という映画があった。あの「モーリス」で主役を演じたジェームズ・ウィルビーが主演と聞いて、いやな予感はしていたのだが、とんでもない作品だった…。
いや、ラブストーリーとしては、まずまずだったのだが、僕は、その原作、ゴールズ・ワージーの「林檎の木」をこよなく愛していた。原作の、あの繊細な、そしてあまりにも残酷な、また、その背景にある重層な社会背景を描ききる迫力に、圧倒されたのだ。
ところが…、映画は、おつむの弱い田舎娘と、のーてんきな都会の若者の、一夏のらぶあふぇあ~(死語)を、なんにも考えずに描ききっていた…。
いや、繰り返すが、ラブストーリーとしては、まずまずだった。ただ、原作のあの繊細であるにもかかわらず重厚な雰囲気がみじんもなかっただけだ。
「劇場版 AIR」を見て、真っ先に思い出したのが、この「Summer Story」の感想だった。デジャビュ?
さて、具体的に何がどうか…といえば、まず、原作「AIR」のテーマは、家族愛だと言うことは、まあ、AIRを遊んだことがある者なら、犬が「わん」と鳴くほどに、当たり前の事実である(決して「ピコピコ」ではない…)。これはいい。
ただ、それと同時に、この物語は、1000年前にかかった呪いを、そののろいがかけられるのを目の当たりにしながら、何もできなかった「柳也」「裏葉」の無念が、時を越え、親から子、子からその子へと続くという、もう一つの血の絆も、テーマになっている。
そして、前者を横糸、後者を縦糸にして初めて、AIRという、美しいタペストリーがおりあがるのに、スクリーンに映ったのは美しいけれども、ただそれだけの横糸2本だった。いったい何のために2つの物語を並行的に語ったのか…。
また、監督はたとえば、病気でやつれた顔を往人に悟られないよう、観鈴がある日を境に、帽子をかぶっているような、そんな細やかな描写に気を配ったと、パンフレットで語っていたが、往人は、観鈴のうちに居候してるんですが…。多分バレバレだと…。そこには、原作で往人が、観鈴の家を離れるに離れられなくなった理由など、一顧だにされていないという、痛い現実が現れている。
それから、まだある! 原作では、往人の人形芸に子供たちが集まらないのは、彼に「何かが足りないから」と、そういうニュアンスで描かれていて、観鈴と一緒にいるうちに、それが何か、徐々にわかり始める。そういう往人の変化が、原作の第1部のあのクライマックスに、連なるわけなんだが、矢吹ジョーばりに軽やかにバスから飛び降りた往人は、行く先々で子供たちの人気者…。
…えっ?
はい。世界観そのものが変わっています。
もちろん、世界観を変えて、クリエーター、ここでは出崎監督の表現したいものを描く手法は、ありだと思う。むしろ、物作りの主体として、そう思わない方がおかしい。
ただ、そうなら、原作、あるいは原型をちゃんと理解してほしいと思う。
たとえば、「カリオストロの城」のルパン一家、銭形警部、彼らがテレビシリーズとかなり違ったパーソナリティーを持って描かれていることを否定する人はいないだろう。そして、そこに描かれる彼らの関係も、また、テレビシリーズとは異なる。ここでは、ルパンの世界観が書き換えられている。
ところが、そこに違和感を感じないのは、宮崎監督が、テレビシリーズの彼らと、彼らの背景をきっちりと理解した上で、Ifのルパン世界を、しっかり土台から作り替えているからだといえる。そしてその上で絶対に守るべき約束、「ルパンは、一番重要なものは盗まない」という、不文律は、決して破らなかったことに、かの作品の「世界観」を変えてもなお、ルパン足り得たすべてが凝縮されているといえる。
さて、翻って、「劇場版 AIR」であるが、さっき書いた縦糸、つまり物語の始まりたる呪いと、それを伝える血の絆、これが、往人のパーソナリティーを形作り、そしてそれが観鈴へと連なり因果の終焉を迎える。この細く哀しい縦糸、これこそが、AIRを1000年の物語とした、もっとも根底にあるものだといえるから、これをはしょった時点で、もはや「劇場版 AIR」は、AIRとは、呼べない代物になったのだろ。
繰り返すが、ラブストーリーとして、そう、単なるラブストーリーとして、この作品を見るなら、「秀」の文字を与えてもいい。
ただ、この作品自体に「駄作」という呪いがかけられたのは、1000年前より連なる「翼人」の呪いの縦糸を切ろうとしたことに起因するのであり、まさに、それがためこの作品自体に「呪い」が、かけられたといえるだろう。
パンフレットを読んでいるとわかるのだが、船が丘を目指していることに、薄々気づいていたクルーが一人いた。その壮絶な「後悔」日記が、見開き2ページで、遺書のごとく描かれている。
もし、もし仮に、このクルー(脚本家)が、船長(監督)を説き伏せ、今一度、宝の島を目指す方向を示し得る力量があれば、きっと、この船は、宝の山とは言わないまでも、幾ばくかの輝く栄冠を手に入れられたに違いない。
残念!
だいぶ前に書いたやつですが…。
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「雲のむこう、約束の場所」11月23日 渋谷
「ほしのこえ」の新海誠作品と言うことで、非常に期待して渋谷(シネマライズ)まで出かけた。片道1時間15分、590円。入場料1500円(学割^^;)は、それでも高いと思えない作品だったと思う。
冒頭、20代後半の主人公ヒロキが、かつて思い人を乗せて飛び立った地に戻るところから物語は始まる。彼の現在の背景はしかし、その後一切描かれないまま、物語は幕を閉じることになる。この演出には不満を感じる人も多いかもしれないが、僕はそれでいいと思う。いきなり結論にもっていって恐縮だが、"あのあと"何があったか、2人、いや3人がどうなったか、それは詳しく説明すべきことではないはずだからだ。
2人は飛び立ち、1人は見送った。そして"その人"は、戻ってきた。それがこの物語の全てだからだ。理由はもう一つ、それは最後に語ろう。
さて、この物語を語る上で、欠かせない共通言語が必要だ。それは、冒頭に書いた「ほしのこえ」。知る人ぞ知る新海誠を世に知らしめた記念碑的な作品として、アニメに造詣が深い人のみならず、映像作品にめざとい人ならば、1度は見たことがあるだろう。
この作品では、テーマとして、物理的、時間的距離を置いた二人の恋人の「想い」を扱う。想いは昇華し、互いに自分の置かれている場所にしっかりと立ち、そしてそれぞれの方法で、一緒にいたいと思うところで、finとなる。
誤解を恐れずに言えば、この「ほしのこえ」は作品としては完結していても、テーマとしては視聴者にボールを投げたところで終わっている。二人が共有できたのは「想い」でしかなかったからだ。想いを共有した二人を、では、どのような試練を課して、どういう結末を与えるか。その点に関しては、語らぬままに終わっている。これは物語としては、作者のテーマの提示でしかない。テーマに対して、どうするか、作者の言葉がそこにはない。
そう、この「雲のむこう、約束の場所」は、新海誠が、そのテーマ、言い換えれば広げた風呂敷をどう閉じるかを見せた作品だと言える。形を変えた「ほしのこえ」が、くしくもヒロキがその羽を広げ、飛び立つ瞬間までに再現される。
ねむり姫を演じるサユリは、ほしのこえのミカコ同様、彼女と、彼女を想う人の思惑をこえたところで、世界を救う立場に立たされたことによって、想い人の前から姿を消す。主人公のヒロキは、彼女が消えた日常の喪失感ゆえ、たどり着く場所、約束の場所から逃げようとする。そうやって逃げていく主人公を、もう一度「いるべき場所」に戻そうとするのは、「ほしのこえ」の携帯メールのように"彼方"から届く夢のメッセージ。
ヒロキは"届かぬメール"ではなく、届いた夢の約束で、二人がいるべき場所をもう一度取り戻そうとする。これは、新海誠が意識していたか、していなかったかは別として、サユリが運び出された病室に残っていた、サユリの夢と、ヒロキが邂逅し、そして廃駅に二人が飛ぶシーンに全て表現されている。やっぱり、想いが重なれば、人は変われるんだ、いや、本当に自分がいるべき場所に帰れるんだという「ほしのこえ」のテーマを、再現している。実際に、この映画を見た人で、このシーンに鳥肌だった人は少なくないはず。それだけ、この瞬間にメッセージ性が凝縮されていると言っていい、「ほしのこえ」の「ここにいるよ」という、言葉を、「そこにいるのか?」というヒロキの言葉に代えて、ここにある。これが、「ほしのこえ」のリメークだという、僕の解釈。
さて、たぶん、そこで終わっていれば、僕は新海誠に失望したまま映画館を出たことは間違いない。
彼は「ほしのこえ」で積み残した宿題を、しかし、ここで鮮やかに…いや、多少泥臭く、ほんの少し照れくさいやり方で、片づけてくれた。
主人公ヒロキは、彼女との2度目の約束を、愚直なまでに実現しようとする。それは、約束から逃げてしまった後悔と彼女への思いの再確認の結果。道を分かってしまったタクヤに、彼女への思いと、そして後悔をうち明け、その協力を仰ごうとすることにより、ヒロキは、自分の想いを再確認する。全てをうち明け、そして、それにより心動かされる親友の協力を得る。
いや、本当は、タクヤもそのパイロットの席に座りたかったのかもしれない。が、彼は守るべき者、想うべき人を既に得ていたから、その席をヒロキに譲った。それが、サユリへの彼なりの約束の果たし方だったに違いない。だって、守るべき人に気がつくその前に、タクヤは彼のやり方で、塔に向かっているのだから。そのせいでうけた傷が、彼をパイロット席からおろし、守るべき人に気づかせたのは、皮肉なのか幸福なのか、分からないけど。
そして、全ての想いが、もう一度約束の場所に集約される。かつてサユリが音楽室で二人にきかせたバイオリンをヒロキが彼らの翼の前で奏でるとき、想いの結晶としてのその映像が、あまりにも美しい。美しさに涙が出る瞬間。この作品のもう一つのキモ。新海誠の作品は、あらゆる光と影を演出として使うが、この瞬間にその全ての結実がある。そして、それはまた、かつてサユリが同じ曲を弾いた音楽室の夕日の赤、つまり、これから訪れる闇へのレクイエムに対比し、夜明けに向けた序曲の蒼としても光のコントラストを描き出す。聴く者、聴かせるものの立場が変わるが、タクヤはいつも聴く側。「一途だな」という傍観者の立場を選んだタクヤの言葉、その一言が、泥臭い解決の仕方しかできないヒロキの全てを表しているのだろう。
たぶん、このシーンを見るだけで、この作品に払った入場料の半分はペイできるだろう。それほどまでに美しく切なく、またすがすがしい。
そして、戦争が始まった…。
作品冒頭に、成人した主人公が「戦争の前、かつて蝦夷と呼ばれた島に…」と、独白するように、この戦争はあっという間に終わる。始めなければ終わってしまう戦争。ユニオンが何をしようとしていたのかは、実は分からない。平行世界に現実の世界を取り込もうとしていたのか、それは結果にすぎず、全く別の目的を持っていたのか、それすら語られない。しかし、このとき戦争が始まり、その結果(壊したのは軍ではないが)塔が壊されることで、あっけなく戦争はその目的を失い、終結したことは想像に難くない。いや、戦争が終わらなければ世界は壊れていたのだし、それ以前に戦争が始まらなければ、世界が裏返ってしまっていたのだから、これは予定調和でしかないのだが…。
戦争のさなかに飛び立つ彼らの翼、見送るタクヤ。眠り続けるサユリ、二人の想い、三人の約束を載せた操縦桿を握り、飛び立つシーンは圧巻。想いのため、たった一つの約束のため、それが例え、世界を裏切ることだとしても、それを果たすべきなんだ。そうしなければ、前に進めないんだ、新海誠は「ほしのこえ」で広げたテーマにそう答える。そして、それはきっと得られる。翼は必ず天に届く。僕が泥臭いとか、照れくさいというのは愚直なまでに、「だから、その想いは、必ず叶えられるんだ!」叫んでる新海誠の声が聞こえるから。
でもね、それは彼が「雲のむこう、約束の場所」に到達した、彼自身の、来し方を知っていれば、掛け値なしに頷けると想うのだよ。
ヒロキと、サユリと、タクヤと、そして新海誠の想いは、塔の頂に到達する。それは美しいことこのうえない。そこで目を覚ますねむり姫。思いはきっと叶う、約束はきっとかなえられる。映像という世界にたった一人で飛び込んだ新海誠に、眠っていた映像の女神が、「ずっとあなたがすきだった」という瞬間が重なる。
そして、ヒロキと新海誠は塔を破壊する。
映画を見たあと、いくつかのレビューを見た。曰く「ほしのこえ」とテイストが同じ。曰く、恋愛ものとしてはいいが。曰く…。
そりゃそうだ。だって、新海誠は「ほしのこえ」を片づけたかったのだからと、僕は推測する。
曰く、次回はもっと違うものを。
心配しなくていいと想う。新海誠は「塔」を破壊したのだから。そして、冒頭のシーン。目覚めたねむり姫を載せた飛行機が戻ってきてから、そのときまでの物語が、何もない。それでいいんだよ。だって、新海誠の次の作品はまだ世に問われていないんだから。
さて、この作品を語る上で、もう一点だけ、付け加えることがある。それは天門の音楽。「ほしのこえ」と同様、彼が新海誠作品に厚みを与えている。新海誠が「光」のアーティストだとすると、天門は「時間」のアーティストだといえる。
彼の音楽は、ひどく目立つ。ホントはBGMなのだから、作品を置いて目立ってはいけないはずなのだが、そうではなくて、音楽が新海誠の映像の時間と瞬間を浮かび上がらせていると言っていい。映像に厚みを加える、その厚みを感じられるという意味で、目立つのだろう。
そして、その「音」が使われたその映像のその瞬間にしかしっくりこないだろうと言う意味で、まさに「時間」を操っていると言っていい。もちろん、メロディーが美しいのは言うに及ばず。
と、言うわけで、持って回った説教をされる某有名監督のアニメ作品に辟易している方は、是非機会を見つけてこの作品を見てほしい。某監督が「カリオストロの城」でみせた泥臭いかもしれないが、映像にかけた若い情熱、瑞々しさを、もしかしたら、見いだせるかもしれない。少なくとも、僕はそれを見つけたから。